Charge Essay1月号:『頭で好きになる』

いつも直感で動いてきた。
ひらめきを信じて、沖縄海人の世界に飛び込んだ…
「自分のなりたい像」が人生の進む方向であり、
身体一つ、手モリ1本で獲物をとるタコ取り名人の「一人技」に魅了され、撮影を続けていた。
そんな時、知り合いを通して善栄オジィを知った。
網を使って魚を追い込む、80代の現役海人オジィだという。

網漁というと遠洋漁業に見られる収奪的なトロール漁で、漁業資源にダメージを与えるようなイメージが強くあった。

けれど、善栄オジィの船は小さく、私が機材を持って乗り込むのも申し訳ないほどのサイズ。オジィご自身もとても小柄で温厚なイメージだった。

フイルムを装填したニコノスV型の水中カメラ4台を持って、船の舳先にちょこんと乗り込んだ。ずっとコンプレックスだった小さな体型を初めて良かったと思えた。それほど、小さな船体に、8馬力の外付けエンジンを取り付け、フルスロットルで海を走らせる。

健堅の港から、瀬底大橋の下をくぐり抜け、目指す漁場は、水納島。
リーフエッジ(外礁の縁)が近づくと、速度を緩め、漁場となる場所を選ぶ。

潮の流れや魚の動きなどを観察しながら、まずは、選んだ漁場に網を仕掛ける。
そして、サンゴ礁内の「魚の通り道」の出口に仕掛けた網めがけて、入り口から魚を追い込んでいくのだ。泳いだり、潜ったりしながら、先にヒラヒラをつけた長い棒で、魚を脅かしたり、水面を両手でパチパチ叩いたり・・・

捉えた魚のくっついた網を、船に引き上げ、船上で魚を外し、クーラーボックスに収める。
そういった一連の作業を全て一人で行う「一人追い込み漁」。


最盛期の健堅のアギャー(大型の追い込み漁)組は、40人から50人くらい、戦後、善栄オジィが頭領を行なっていた時でも、30名〜40名の大きな船団で行なっていたそうだ。
善栄オジィと知り合った後、沖縄の離島の大型の追い込み漁に同行するようになったが、その時で、組員は約20名。厳しい海での過酷な仕事で、後継者は年々練り続けていると聞いた。
今では、スキューバ機材を使って、深い海に潜って魚を追い込むが、一昔前には、サバニにエンジンもついておらず、すべて素潜りで行なっていた。
戦後様々な仕事が選べるようにもなり、丘に上がった海人も多い中で、海人を続けてきた善栄オジィ。

戦後20年、50歳の頃、心筋梗塞で倒れ、医者に海に潜ってはいけないと言われるまで、アギャーの頭領の座を他の海人に譲ることなく、海に潜ってきた善栄オジィ。

海上から釣り糸を垂らして魚を取ろうにも、海の中を泳ぎ回っていたものにとって、それは苦行でしかなく、
対象とする魚や規模、道具を変えて、一人で取れる魚を追いかけ始めた50歳半ばの頃。
沖縄が本土に復帰した頃、一人追い込み漁で、海に復帰したのだと聞いた。
そして生涯現役の海人として、92歳まで海人人生を全うされた。

サンゴ礁の海に潜れば、実に様々な生き物が生息しているのがわかる。サンゴそのものも、種類が豊富で、多種多様性が沖縄の海の特徴だ。
逆に言うと単一の魚を大量に捕獲することが難しい海だ。だからこそ、その環境に応じて、様々な漁法が編み出されたのだと言う。
善栄オジィが、一人追い込み漁を編み出し、一人で海の仕事を続けられたのも、海を知り、魚の習性を知り尽くした体験と、この海の多様性のお陰だとも言えるかもしれない。
私が想像することすらできない、戦前、戦中、戦後、そして本土復帰前の沖縄の激動の時代の苦労。鬼となって仕事をしてきたという海人たちを今を生きる私が見ることはできない。
それでも、食べることすら厳しかった時代の人たちは「ひもじくないか?」といつも声をかけてくれた。
海の中での無駄のないスムーズな動きや、海を見つめる時のふとした目の奥に見える厳しさ。
様々な海人たちと関わり、海と陸での豹変ぶりなどと合わせて、鬼と化して仕事を続けた海人の姿を、少しだけ想像できる。

昔の話を聞いたり、文献を読んだり、知識として知ることと、自分の体験が重なり合い、世界が広がっていく。

写真は全て「過去」だ。けれど、新しい知識が、別の世界を見せてくれる。
当時の私では見逃していた写真を、今の私は見ることができる。
とても面白い。

写真を見てくれた人達が、思い出したことを、私に伝えてくれた。
陵の人が見ていた、戦後の海人の世界・・・

追いかけることに夢中だった私が、歩むスピードを落として見えてきた世界。
それらを取り入れ、新たな気持ちで、写真に向き合いたいと思う。


つれずれなるままに。

追伸  善栄オジィの一人追い込み漁の写真は、2022年1月17日〜23日開催の「海人のことづて」写真展に多数展示予定です。
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